スケッチ禁止期間に入ります
- お知らせ
ただいま開催中の展覧会「生誕130年河井寛次郎展 ―山本爲三郎コレクションより」は、おかげさまで1万人目のお客さまをお迎えいたしました!
記念すべき1万人目のお客さまは、東京と横浜から親子でお越しのおふたりです。河井展をお目当てにご来館いただいたとのこと、ありがとうございます!
ご滞在中は河井寬次郎記念館へもお出かけになるそうです。河井の足どりをたどる、良き旅となりますように。
さて、これから庭園の木々も色づき、紅葉も見ごろを迎えてまいります。当館では、引き続き新型コロナウイルス感染症対策を万全におこないながらお客さまをお迎えしてまいります。
秋の芸術鑑賞に、みなさまのご来館をお待ちしております。
(M)
本日は展覧会のご紹介第6弾、河井寬次郎が足しげく通った三國荘(みくにそう)についてご紹介いたします。
1928年、御大礼記念国産振興博覧会のパビリオンとして建てられた民藝館は、その支援者であったアサヒビール初代社長・山本爲三郎が什器ごと買いあげました。博覧会の閉会後に解体され、山本の邸宅がある大阪・三国に運ばれて移築再建されます。移築にあたって、河井は柳宗悦らとともに監督をつとめました。実際の生活に適するように大幅な改修を経て完成した建物は、地名にちなみ「三國荘」と命名されました。
その内部には、和風、洋風、朝鮮風のさまざまな意匠がほどこされていたといいます。著しく近代化の進む日本において、新たな生活の規範を示すものでした。
三國荘は山本家の生活の場となるとともに、民藝の同人たちにも開放されていました。多くの同志たちの集う、初期民藝運動の拠点でもあったのです。
河井は、三國荘のために数々のうつわを制作しています。たとえば、黄釉で大胆に筒描きされた《スリップウェア線文鉢》(1931年)は、裏面の素地に「三國荘常用ニ 昭和六年四月廿五日」と河井による墨書がみられます。
本作のほかにも、組物の皿や碗など、さまざまな生活陶がのこされており、三國荘の食卓を彩っていたことがうかがえます。また、山手館では黒田辰秋のテーブルセットを参考出品し、三國荘の応接室の再現展示をしております。河井の作品とともに三國荘の雰囲気を感じてみてください。
本展は展覧会図録を刊行しております。河井の貴重な作品をお手元でご覧いただけます。
なお、展覧会会期中に限り、河井展と三國荘展の図録を特別セット価格でご用意しております。ここではご紹介しきれない貴重な記録写真も多数掲載していますので、どうぞお手に取ってご覧ください!
(M)
本日は展覧会のご紹介第5弾です。河井寬次郎が同志たちとともに力をそそいだ、初期民藝運動の一大事業「民藝館」についてご紹介いたします。
1927年、河井ら同志たちが『日本民藝美術館設立趣意書』を発表し、始動した民藝運動は、翌年上野公園で催された御大礼記念国産振興東京博覧会への出陳によって、本格的に展開していくことになります。博覧会への出陳は、ただ民藝の品を棚に並べるのではなく、パビリオンからつくりあげられました。河井や柳宗悦が中心となり、間取りや建具の設計からこだわりぬいた木造平屋の1棟を民藝の品々で尽くし、理想の生活空間「民藝館」は完成したのです。
(民藝館 外観)
古民家風の懐古趣味ともいえる民藝館は、近未来的な進取の気風に満ちた会場のなかで、異彩を放つ存在であったといいます。会期中は大勢の来館者でにぎわい、新聞や雑誌でも紹介されて好評を博しました。
館内は、河井が柳や濱田庄司とともに全国各地を行脚し調査蒐集したものや、朝鮮から手配されたものに加え、同志たちが手がけた作品でととのえられました。
民藝館の応接室をとらえた記録写真には、本展出品の河井作品《海鼠釉(なまこゆう)線文蓋付壺》(1928年頃)が写っています。
鉄砂で凛々しく引かれた線は写真からもはっきりとうかがえ、小ぶりであるものの存在感が感じられます。ぜひ会場にて、応接室の写真パネルと本作を同時にご覧ください!
そしてこの一大事業を篤く支援した人物こそ、アサヒビール初代社長・山本爲三郎でした。山本の日記には、自らも足をはこび民藝館の竣工を温かく見守ったようすが記されています。山本は、民藝運動の初期を支えた立役者でもあったのです。
博覧会の終了後には、民藝館は大阪・三国の山本邸内に移築され、「三國荘」として山本家の生活の場になるとともに、初期民藝運動の拠点となっていきます。
(M)